10年前の、あの長い一日を思い出しながら記録しておこうと思う

今日はなぜか、朝起きた時から頭が痛かった。日中はそれでも大丈夫だったんだけど、夜になってまた頭が痛くなってきた。
今日は9月11日(日)。あれから10年丁度が経過した。あの日の記憶は、年々薄らいでしまっているので、この辺で思い出せることを書きとめておこうと思う。


日本時間の2001年9月11日朝。私は朝早い飛行機で、実家近くの伊丹空港から成田空港に移動していた。成田空港へは乗り継ぎのために飛ぶだけで、その後の国際線のチェックインも含めて伊丹空港で済ませ、成田空港に着いた時には殆ど手ぶらの状態だった。
国際線出発の時刻までは確か8時間くらいあったと思う。私は国際線にチェックインした状態のまま、成田エクスプレスに乗り、昼前には大好きな秋葉原に到着していた。
しかし、あいにくの雨。それも確か台風の影響で、もの凄い風雨だった。コンビニで急遽購入したビニール傘はすぐに崩壊し、それでも大雨の中、ランチに「じゃんがらラーメン」に行ったのを覚えている。いつもは行列ができているのに、さすがにあの日は並んでいなかった。
あの時、秋葉原で何を買ったのかはよく覚えていない。ただ覚えているのは、ベランダの花用に自動散水機(けっこうデカい)を抱えて成田空港に向かったことだけだ。そう、荷物は全てチェックインしてあり、殆ど手ぶらだったので、これくらいの大きさなら機内持ち込みでOKだろう、ってことで買ったんだった。
余裕を見て、国際線出発の2時間前には成田空港に戻ってきた。とにかく雨でズブ濡れだったので、確か成田空港の有料シャワールームに寄ったような気がする、がその辺は記憶が定かではない。
国際線はたぶん、台風の影響もなく定時に飛んだと思う。機内では、ズブ濡れになった靴のかわりに、通常だとエコノミークラスでは貰えない機内用スリッパを無理を言ってもらって履いていたのを覚えている。


私がその時乗った飛行機は、全日空の NH008 便。成田空港発、サンフランシスコ行きだった。


全日空の成田サンフランシスコ便は、私が1995年にアメリカに来た後に就航した路線だ。確か就航してすぐに乗った時、エコノミークラス全体で十数人しか乗ってなくてビックリしたのを覚えている。その時話したフライトアテンダントの「そうですね、なかなか苦戦しています」の声が今でも記憶に残っている。就航第一便は、何としてでも満席にしなければならなかったらしく、私の職場にも「第一便だったら日本までの往復が$300以下」みたいな話が流れてきていた。
アメリカへの帰りの便は、偏西風に乗って飛ぶため、夕方に成田を出発した2時間後には食事を取ってそのまま一眠りしたらもう到着、みたいな感じで、日本に行く時よりもはるかにラクである。その時も確かそんな感じで結構よく寝ていたと思う。気づいたらすでに機内の明かりが点灯し、飲み物のあと、軽い朝食の時間となった。あと2時間くらいでサンフランシスコに到着である。


朝食の後、なにげなく各席の前に取り付けられてあるモニターに目をやると、そこには「現在の飛行機の位置」が、アメリカ西海岸の地図とあわせて表示されていた。地図には、現在の位置と、それまでの飛行経路が線となって表示されている。その線はゆるく弧を描きながら、サンフランシスコへ向かっていた。現在位置には小さな飛行機の絵が表示されている。が、なぜかその時は、その飛行機の絵が北を向いていたのだ。「あはは〜、これ壊れてんじゃん〜」。その後しばらくして、再度モニターを見てみると、北を向いて表示されている飛行機の絵はまだそのままで、何とその飛行軌跡まで北を向き始めた。そう、今までゆるやかな弧を描いていた飛行軌跡が、いきなり90度カクっと曲がっていたのだ。が、それを見てもまだ「うわ、まじで故障してるわ」と、その時は思っていた。今思えば、その時のモニターをなぜカメラで撮っておかなかったんだろう、そのくらいレアケースな故障だった。そう、故障だとその時は思い込んでいた。
さらにしばらくすると、今度は機内アナウンスが流れた。細かい内容はもう覚えていないが、確かこんな内容だったと思う。


「現在、アメリカ国内におきまして、十数機の同時ハイジャックが発生しております。その影響でアメリカの全ての空港は全て閉鎖されました。当機はこのままカナダのバンクーバー空港に向かいます...」


十数機の同時ハイジャック??全空港閉鎖??そんなことってあるのか??意味がわかんないぞ??当然、機内は騒然としてきた。皆が「いったいどういうことだ?」「何が起こってるんだ?」と、口々に、しかし何の情報も無いまま、話あっていた。
そうしてる間にも、席の前のモニター上には、飛行軌跡が一直線に北へ伸びて表示されていた。オレゴン州の横を飛行し、ついにワシントン州の横まできた。もうすぐカナダ国境である。そして再度、機内アナウンスがあった。それまでも何度かアナウンスがあったような気がする。その時は機長からだったと思う。


「当機はこの後バンクーバー空港へと着陸する予定ですが、現在、太平洋上空を飛行中の全ての飛行機がバンクーバー空港へと向かっているため、空港が大変混雑しており、いつ着陸できるかわからない状況です。このまま空港上空を旋回し、管制塔からの着陸許可を待つことになります。燃料はまだ十分にありますので大丈夫です」


みたいな感じだったと思う。アナウンスの通り、我々が乗った ANA NH008 便はバンクーバー上空なのか、太平洋上空なのか、とにかくその辺を延々と旋回しつづけた。そして1時間か2時間後、ついに着陸許可が下りたとのアナウンスが。機体が着陸態勢へと入った。
この段階では、最初に行われたアナウンスで流された以上の情報は、一切アナウンスされていなかった。ニューヨークやワシントンDCでいったい何が起こっていたのかも、実際には何機のハイジャックが起こっていたのかも何も知らされないまま、ひたすらどこかに無事着陸できること、そして本当はいったい何が起こっているのかを一刻も早く確かめることを望んでいた。
そして、ごく普通にバンクーバー空港へと着陸した。が、そこで見た異様な光景は今でもよく覚えている。そう、滑走路からターミナルの方へと繋がる何本かの誘導路全てが、何台もの飛行機によって埋まっていたのだ!「これだけの数の飛行機が全てこの空港に着陸したんだ」という驚き。実際にとんでもないことが起こっているんだという実感が、はじめてそこで湧いたと思う。
我々が乗った ANA NH008 便も、他の飛行機と同じく、滑走路脇の誘導路に侵入したきり、そこで全く動かなくなってしまった。何度目かの機内アナウンスが流れる。


「現在、全てのターミナルが使用中のため、ここから動くことができません。まだしばらく時間がかかると思われます」


そんな感じのアナウンスだったと思う。しかしそれだけで、ハイジャックの詳しい内容や、いったい何が起こっているのかに関しては、一切アナウンスが無い。
そうこうしてるうちに、乗客の誰かが携帯電話でゴソゴソと外部と話はじめた。私も、本当はいけなかったんだろうけど、ついにそれまで切っていた携帯電話の電源を入れてみた。デジタル圏外の音とともに、アナログ回線が繋がった。ラッキー!すぐさまシリコンバレーの同じソフトウェア会社で働く日本人のエンジニアに電話してみた。アナログ回線特有の呼び出し音の後、なんと繋がった!


「かずさん、今どこからですか?確か今日サンフランシスコ空港に戻ってくるはずでしたよね?」「今、バンクーバー空港です!」


その電話で初めて、ニューヨークやワシントンDCで起こったことを、知ったのだった。


「飛行機から降りたらすぐまた電話します」と言って、確か1分くらいで切ったと思う。機内では、私と同じように携帯電話で事情を知った人たちが、その情報を周りに話はじめていた。
しばらくしてフライトアテンダントと話をしたら、彼女らはすでに何が起こっていたのかを無線で知っていたらしく、「そのようですね」と答えていた。なるほど、やはり知っていて、それでもアナウンスでは流さなかったんだな、と確認ができた。恐らく乗客がパニックになるのを防ぐためとか、そんなことだったんだろう。


バンクーバー空港に着陸してから、確か3時間くらい経過したと思う。ようやくターミナルに着けることができ、飛行機から降りることができた。事前に機内アナウンスで、降りた後も ANA の社員の指示に従ってください、と言われていたので、その指示通り NH008 便の乗客は空港の一カ所で固まっていた。そこには、ANA 成田ロスアンジェルス便の乗客も集まっていた。そう、太平洋上空を飛んでいた飛行機は、サンフランシスコ便だけではなく、LA便やシアトル便も当然含まれていたのだ。
我々が一カ所で固まっている間にも、空港内のTV画面に流れるニュース画面が目に入ってきた。そこで何度も流されるニューヨークからの映像を観ながら、それが本当に現実に起こったことなのかどうなのか、何度観ても全く実感が湧いてこなかったのを今でも覚えている。恐らく日本の深夜に、TVの画面を観ていた人たちと同じだったと思う。


何時間か空港内で過ごした後、ANA の人から説明があり、「今日はこのままウィスラーへとバスで移動して、そこのホテルで一泊することになります」とのことだった。その空港では、飛行機会社から「我々の責任は、あなたたちをここまで無事運んでくる所までで精一杯だ。あとは自分たちで何とかしてくれ」と通達され、途方に暮れて唖然としている人たちが溢れている中、この ANA の対応は本当に心強かった。


この後、どのようにしてカナダへの入国審査を通過したのか、その辺の記憶はもう無いが、なぜかウィスラーに向かうバスの中から見たバンクーバー湾の綺麗な光景だけが記憶に鮮明に残っている。機内持ち込み以外の荷物は、全て空港で全数検査をするらしく、その日は受け取ることができなかった。が私はなぜか秋葉原で購入したデカくてジャマな自動散水機の箱をバンフのホテルまでずっとかかえるハメに、、、こんなことなら、こんなジャマなもの、わざわざ秋葉原に寄ってまで買ってこなかったよ!と何度も途中で後悔した覚えが、、、


ANA がチャーターしてくれたバスにゆられること3時間ほどで、冬はスキーリゾートで超有名な、というか 2010 年バンクーバー冬季オリンピック開催地の1つだったウィスラーに到着。なんと ANA が用意してくれたホテルは、そのウィスラーでも超有名な高級リゾートホテル、シャトーウィスラーだったのだ!


とりあえず今日はここまで書いて終わり。書いてる間にも、今まで忘れていた記憶がちょっとづつよみがえってきているので、続きを書く頃にはさらに色々と詳細を思い出してるかも。今日書いた文章も、色々思い出すたびに追記していこうと思う。


2011年9月11日(日)22時15分@カリフォルニア時刻 寺崎和久